美しい名前

突然だけれども私の苗字はとてもありふれていて全国17位だから18位だか21位だかなんかそんな感じの苗字なのだけれど、名前の方は珍しくはないながらにもそんなにありふれてはいなくて、同じ名前の人に出会うことはほとんどない。私は幼少期、その名前が嫌いだった。そんな話

よく聞く名前や漢字を使ったかっこいい字面に、私は憧れていた。ひらがなで聞き馴染みもない私の名前を、私は嫌いだった。名前の総画数が12画しかないのも、なんだかスキマだらけでカッコ悪いと思っていた。自分の子供には漢字の普通の名前をつけようと、心に決めていた時期もあった。
いつだか、自分でもいつからか分からないほどにすぐ、そして意識などせずに、自分の名前に対するコンプレックスは消えた。

 

苗字がありきたりなことや、私のキャラなど、色々な要因があるのだと思うけれど、私は昔からいつもどんなコミュニティでも、名前の方で呼ばれることが多かった。名前で呼ばれることで私は私の名前を軽率に好きになったし、先輩や上司など苗字が然るべき相手にも名前で呼んでもらえるのは、私の名前がありふれたものではないから、名前呼びが自然でそこに流動性があるから、そんな名前だからなのだろうな、と思う。私は妙に名前呼びをされることが多いなと気づいた頃には、私は私の名前が悪くないと思っていた。
学校でもサークルでも職場でも、友達も先輩も後輩も同期も上司も、初対面の人でさえ、私のことを基本的に名前で呼ぶ。名前で呼ぶことに抵抗のない私のハードルの低さだったりその呼びやすい名前そのものだったり名前の語感だったりを、今では私はそれを自分の強みだと思っている。自分の名前を嫌いだと思っていた幼少期の私よ、あなたの名前は素晴らしい。

 

今日、私の好きな作家さんのサイン会に行った。私のフルネームをサインに添えて書いてくれた時、「芸名みたい、綺麗な名前ですね。あなたによく似合っていると思います」と言ってもらえた。日本語のプロに名前を美しいと言われて更にはそれが大好きな作家さんということに、私の心はすべからくとして大きく震えた。シンプルに私は自分の名前を気に入っているので、嬉しく思ったし誇らしく思ったし、なんというか、そんな今日のできごとを記しておきたかった。

 

一生付き合っていく名前を好きだと思えているのは幸せなのだとシンプルに思う。
「名前を呼ぶ という行為はとても美しいのだ」

と作られた曲があって、私はなんとなく今日その歌を聴いて総武線に乗った。
今頃気づいたんだ、君のその名前が、とても美しいということ
という歌詞が、とても染みた。

ジャニーズの名曲の話

随分とお久しぶりだったのは、まあ色々とあったからで、その間純恋歌に対する考察もできずに、私はなぜだか今回、マイベストジャニーズソングトップ30を披露致します。

私がどれだけ関ジャニを贔屓しているのか、どんな時代にどんなグループを聴いていたのか、ありありと分かるのが面白いですね。好きなものに順位をつけるというのはとても難しくて、「もともと特別なオンリーワン」ってこういう時に使う言葉なのだろう、と、思いました。

下記30曲を見てなにかピンときたジャニオタ同志の方、私が好きそうなオススメの曲を教えてください。

私はなんだかんだ言ってもジャニーズが好きだし、関ジャニが生きがいなのでした。これからもよろしくお願いいたします。

 

1・Do you agree?(関ジャニ∞
2・次の春です。(関ジャニ∞
3・My wish(堂本光一
4・Heavenly psycho(関ジャニ∞
5・瞳を閉じて(ジャニーズjr.)
6・君を想うとき(TOKIO)
7・1人ぼっちのクリスマス(kinki kids)
8・ベスト・フレンド(SMAP)
9・ありがとう。(関ジャニ∞
10・LOVE SONG(NEWS)
11・Some times(TOKIO
12・10年後の今日の日も(関ジャニ∞
13・パレット(嵐)
14・Hello(kinki kids)
15・Believe your smile(V6)
16・さよならはいつも(関ジャニ∞
17・明日に向かって(ジャニーズjr.)
18・ひとりじゃない(堂本剛
19・僕の恋愛事情と台所事情TOKIO)
20・LIFE~目の前の向こうへ~(関ジャニ∞
21・この星が輝く理由(関ジャニ∞
22・Blue(嵐)
23・君は君だよ(SMAP)
24・大阪ロマネスク(関ジャニ∞
25・family~ひとつになること~(kinki kids)
26・太陽の当たる場所(V6)
27・恋焼け(NEWS)
28・ふりむくわけにはいかないぜ(関ジャニ∞
29・星屑のスパンコール(ジャニーズjr.)
30・It`s not over yet(関ジャニ∞

純恋歌の考察 その1

度々このブログの中でも物議を醸している伝説の名曲を、どうしても解剖したかったから書きます。というのも、私が生きてきた24年間とこの歌の世界観はあまりにズレがあって、この歌の真髄はそのズレをいちいち修復しないと見えてこないのかなと思って、自分なりに咀嚼する事で名曲を名曲と感じ広い視野で世界を見ようじゃないかと、そういうことです。かっこつけて言いましたが要は「湘南地区の若者の恋愛を理解する」こと、そういうことです。

 

【億千の星と一番光るお前の考察】

まず「目を閉じる」というのは物理的なものではなく深層心理を揶揄するものだという解釈をしている。「心の中に億千の星が見えるけれど、お前が一番輝いているよ」ということである。そうなると「億千の星」は、世に生きる他の女性を意味する事が分かる。「世の中の他の女よりもお前が一番輝いてるよ」というなんともロマンチックな歌詞のように思えるが、ここでの懸念は「心の中に何人も女がいてその中でお前が一番」と言っているところである。相対評価なのはまあ仕方がないけれど、心の中にいつも他の女が存在していること、「お前しか見えない」という訳ではないのは少し生々しくて寂しい。その後の「初めて一途になれたよ」という歌詞から、「まあ浮気をしたりしたこともあったよ」という衝撃の告白とそれを棚に上げた改心宣言。それらを加味すると「色んな女を見てきたけども今はお前が一番輝いてるわ」というなんともペラペラなイマドキ恋愛に成り下がってしまうのである。そんな浅瀬で戯れているような気持ちを壮大な夜空に比喩して美談にしてしまうから、この男は侮れない。

 

【パスタの考察】

この歌で一番重要なキーワード、「パスタ」。最も物議を醸していると言っても過言ではない。

まず「お前」は「大親友の彼女のツレ」なので、友人の紹介で出会ったことが読み取れる。そしてパスタを作ったということは大親友かその彼女の家で会ったのだろうと思う。いきなり初対面の女性の家のいうのはいささか現実的ではない。ということは、パスタの作者は家主ではないのである。「お前」が他人の台所を借りて調理をしたのである。こういう時はだいたい、「アーシ料理けっこうするから作るワ」としゃしゃったのだと思う。そして「俺」と「お前」をくっつけたい「大親友の彼女」が、「リサ(私の中で勝手にお前=リサなのである、悪しからず)意外と家庭的だもんね~料理うまいよね~」とか焚きつけたのである。罪深い。「アーシ料理けっこうする」という女はだいたいパスタしか作れない。下手したらカレーも作れない。あとレタスちぎってミニトマト乗っけてサラダ「作った」とか言う。まあそんな感じでパスタを作った「お前」である。まあ美味しかったのだろう。「美味しいパスタ」と言っているし。そこで、その美味しいパスタを作ったごときで「家庭的」だと思ってしまう「俺」の生い立ちが浮き彫りになる。幼少期から母の愛情こもった手料理を食べてきた人は、作れる作れないは別として、「パスタは結構簡単な料理である」という事が分かっている。分かんない、白ワインでフランベとかしちゃったりしたらマジスゲー料理の腕だし家庭的の域を超えているけれど、多分「アーシ料理けっこうする」とか言って他人の台所を占領する女はフランベの意味を知らない。多分だけど、明太子和えて大葉と海苔乗せたやつ。まあ話を戻すけれども、少なくとも我が家は「今日は時間なかったからパスタね」「今日は料理めんどくさかったからパスタね」と割とサボり料理のひとつだったし、世論も結構そうだと思う。一人暮らしを始めた男子が最初にチャレンジするのもたいがいパスタである。そんなお手頃料理「パスタ」で、「ああこの子は料理が出来るんだ、家庭的だなあ」と思ってしまう「俺」の家庭環境を考えると、なんだか胸が締め付けられて、抱きしめてあげたくなる。これが母性なのだろう。あ、手土産で手作りパスタ持ってきたとしたらそれはそれで家庭的なのかもな、ありがた迷惑ではあるけれども。

この次、この次が一番謎。前回の記事にも書いたけれど、パスタを作る段階は一般的に、初めましてをして、自己紹介や他己紹介をして、共通の趣味とか学生時代の話とかして、ある程度盛り上がって、もうこんな時間だね何か食べよう、となって、パスタ、なのだと思う。多分ここまで正味1時間半。そしてパスタ制作に30分かかったとする。そしたら2時間。そして一口食べて、うまい→家庭的→一目惚れの流れとなっている。が、ここ。ここが最大の謎である。私の知るに「一目惚れ」は、「一目見て好きになってしまう」ことである。そうなると出会って概算2時間経っている時点で本来は「一目惚れ」ではない。この点に於いては、パスタを食べるという過程を経て、美味しいパスタを作ることが出来る、「家庭的であるという要素を持った彼女」に一目惚れをしたのでは、と考察する。彼の中で「家庭的である」ということのポイントがあまりに高いのだと思う。パスタ食べるまでの2時間は、ほ~んまあ可愛いんちゃう?くらいだったのが、パスタ登場→食べる→美味しい→家庭的やんけ!→めっちゃ可愛く見えてきた!→好き!と彼の中の感情が大きく揺れたのである。忙しい奴だな。普通の人がオプションとして捉え「あったらいいな」くらいに思う「家庭的要素」に比重を置く彼にとっての真の一目ぼれの瞬間が、まさにパスタだったのである。普通に居酒屋とかで出会ってたら実らなかったかもしれない恋だったんだなあと思うとディスティニーが過ぎる。

 

大貧民の考察】

美味しいパスタ食べた後にトランプをするというあまりに可愛い時間の使い方なのはまあ置いておいて、大貧民ごときでマジギレするのも美味しいパスタすら作ることが出来ない母を持った家庭環境から感情の振り幅が分からなくなってしまっているのかもとか思えばまあ合点だとして、問題はマジギレしている「俺」を見て「楽しいね」という感情が沸く「お前」のサイコパス性と、そんな「お前」を見てベタ惚れする「俺」の恋愛スイッチである。初対面の大の男が大貧民でマジギレしていたら、私だったら普通に引く。「マジギレ」って、四肢を振り乱したり大声出したり、最悪の場合物を壊したり人を殴ったりするアレを想像しているけれど、だとすると結構軽蔑する。それを優しくなだめたりするならばまだ分かる。けれど彼女は「楽しいね」と言っている。楽しい???大の男が六畳一間で大暴れしてるのが楽しい???きっと「楽しい」と思うには理由があって、彼女が楽しいと思っている理由は、マジギレの事実ではなく、「マジギレするに至った理由」にあるのではと思う。

考察として、単純に、マジギレの理由が彼女なのだと思う。大前提として、彼女はどちらかというとSである。「俺」の隣に座っていた彼女は、スペード縛りとか革命起こしたりとかここぞでジョーカー出したりとか、地味にいらっとくる事を結構したのだろう。じわじわ苦しめて楽しんでいたのだろう。とんだ悪魔である。案の条「俺」は負け、予想通り不機嫌になる彼。自分で組み立てたストーリーなら、そりゃ沸き出る感想は「楽しい」である。そして彼も彼で割とMなのだ。先程一目惚れをして好意を持ち始めた女性からじわじわ責められるのは心中まんざらでもなかっただろう。けれどプライドの高い湘南の男にとってどんな勝負でも負けるのは悔しい。特に彼は家庭環境が災いして、今まで強がり虚勢を張り周囲に牙をむいて生きてきたのだろう。そして湘南の男の感情は割と全振りなところがあるから思わずマジギレもしちゃう。そんな自分じゃいけないことも分かってる。けれど正しい感情の出し方が分からないのだ。教えてくれるような親ではないのだから。強がって、女は従えるものだとか思っていた亭主関白的俺は、生まれて初めて女性に弄ばれ、恐れられていた自身の暴力性を「楽しいね」とあしらう女性に出会ったのである。自分でも知らなかった自身のMな性癖の覚醒の瞬間である。SとMの合致ほど直線距離で距離が縮まるものはない。いかんせん感情が全振りな湘南の男。ベタ惚れである。

彼女、彼の性格を分かった上で惚れさせる為にわざとキレさせたのだとしたら、なんたる悪女である。

ちなみに私は勝手に

俺→ケンジ

お前→リサ

と名付けている。ケンジはEXILEのアツシをリスペクトしているし、赤黄色緑のラブ&ピースのマークが車のバックミラーにぶら下がっている。車は黒の四駆で車高が高い。成人式は袴(けれど黒とかわりとシックなやつ)。中学の時に初めて向き合ってくれた大人、担任のおばちゃん先生を恩師と慕う。車の整備士をしている。初任給で恩師に花とか買っちゃう。リサは中学の時はココルルが好きだったし今はDURASとかが好き。家は結構金持ち。両親とは意外と仲が良くて「パパ、ママ」と呼ぶ。地毛も割と茶色い。それを中1の時に生徒指導のジジイに疑われて中3から生意気とか言われて、ちょっとグレた。黒地にピンクのバラと蝶々の浴衣とか着る。加藤ミリヤとかE-girlsが好きだけど、意外とback numberとかも好き。

 

 

予想外に長くなった上に半分しか書けなかったから、2回に分けますね。分ける程の内容じゃないけれども。

次回、【嬉しくてスキップ、という感情直結型】から考察を始めます。ご精読ありがとう。

どうでもいいこと集

おひさしぶりーふ

普通にさぼっていた

 

 

・「暖かい空気は上にいく」の「上」の限度はどこなのか

 

・少なくともパスタを「おいしい」と味わう時間があった時点で一目惚れではない

 

KAT-TUNの全盛期はデビュー前だったなあ

 

・貧乏ゆすりで痩せるのか

 

・miwaは可愛いし歌もうまいし頭も良いし完璧なのだけれど、たまーにびっくりするほどださい詞を書く

 

・どんな役をやっていても伊藤英明サイコパスに見えるし要潤はふざけてるように見える

 

・私は吉沢悠とか河相我聞とか姜暢雄みたいな顔がとても好きですごくかっこいいと思うけれど、例えば彼らと結婚して子供を産んだら絶対イケメンは生まれないと思う。綾野剛しかり

 

・例えば男性と街を歩いている時に友人と擦れ違って、「その人彼氏?」と聞かれた時、「ううん、斉藤和義」と答えたら、人は笑ってくれるだろうか

 

萩野公介が小学生の時にハギコーと呼ばれていた可能性はとても高い

 

・「甲府」はバランスが取りづらい

 

つんくの恋愛観は独特

 

ミンティアはなぜくしゃみが出るのか

 

・結婚式でピンクのドレスを着ても許されるのは、何歳までなのだろうか

 

・例えば出産時力んでいる時に立ち会っている旦那に「がんばれ」と言われ、「うん、努力は女のマタの力って書くからね。マタに力も入るわ」と答えたら、旦那は笑ってくれるだろうか。そして生まれた息子に「努」と名付けたら怒られるだろうか

 

1992年のあなたとわたし

1992年4月25日、尾崎豊が逝去した。26歳だった。その2ヶ月半後1992年7月11日に、私は生まれた。私は今日、24歳になる。
つまり私は尾崎豊と入れ違いに生まれたので、尾崎豊と同じ空気の中を生きたことがない。尾崎豊を生放送で観たことがない。生きた時代がちょうど違うのだ。1992年を隔てて、昭和の彼と平成の私は、時代を生きる。

 

私は尾崎豊の「Forget me not」という曲がとても好きで、なんなら1985年の曲なので30年前の、モロ昭和の曲なのだけれど、この曲を聴くと、大切にしたいものは何十年前も何十年後も変わらずに咲き続けているのだなあと思う。

「時はためらいさえも ごらん 愛の強さに変えた」

という詞に、永遠を感じる。わけもなく涙が出そうになる。私より歳下だった彼が昭和という時代に作った繊細な歌は、平成の若者にもちゃんと伝わっているので、愛というものは不変的なのだろうなあと思う。彼の生きていた26年間と私の生きている24年間は別世界のように違うもので、なんなら私が生きている24年の中でも大きな変化がたくさんあって、私が生まれた頃の母の顔は昭和臭くて野暮ったいので、時の流れは激流なのだなあとたまに思う。けれどその中で変わらないものは確かにあって、長いこと変わらなかったり、受け継がれたり、愛されていたり、そういったものは一概に素晴らしいのだと感じる。

 

尾崎豊の行きた昭和の26年間と私の生きる平成の24年間のその50年の中で変わらなかったものは、「素晴らしいものを素晴らしいと思うその感性や素直な気持ち」なのだと思う。私は尾崎豊だったり、中原中也山田かまちのような、儚く繊細な少年の作る作品がとても好きで、彼らは素晴らしいと感じる自分の感性や純粋な気持ちを素直に瑞々しく表現するのだ。
素直に、自分自身で感じたことや、素晴らしいと思った感性や、好きだと思った直感や、それら全て「自分の気持ち」を大切にできる大人でありたいと、今日、思った。尾崎の曲が今日まで歌われ続けているように、私が生まれてから今日までの24年間や、これから先の何十年も、素晴らしいものは尊く生き続けるのだ。それらを素晴らしいと素直に感じて、いつまでも変わらない世の中で、そんな世の中で生きる私であり続けたいと、帰り道の大江戸線でなんとなく思った。

 

こんなに尾崎豊を熱弁したくせにそーーーんなに好きじゃあないから困ったもんだ。ウェーイオッパーイみたいなことを平気で口にするのは控える24歳でありたい。

大人、子供、中学生、普通の子

中学生は人生で一番不安定で多感で、人生で初めて大きな障害に直面し、自答し乗り越え、大きなものを得たり失ったりする。その3年間で世界は驚くほど広がって、人生で一番感情が揺れ動く。とにかく何かを求めて、持てるだけの全ての感情をフル稼働させながら生きている。その姿はとても美しいのだ。

 

私は重松清の「エイジ」という作品がとても好きで表紙がなくなるくらい肌身離さず愛したリアルに愛読書なのだが、なぜそんなに好きかというと、なんてことない中学校生活を生々しく、子供たちの成長を分かりやすく、私達に一番馴染む形の文章で伝えてくれるからなのだ。赤・青・黄色、みたいな、思考ではなく本能に訴えかける色をしているのだ。そんな直球な文なのに、言葉にできないような多感な中学生の心情を、的確すぎる表現で繊細に優しく書き起こすのだ。そんな天才なのだ、重松清は。

あと私がなぜ重松清が好きかというと、「普通の子」にスポットを当てる天才だからなのである。その分かりやすい例が「エイジ」である。優等生も問題児も、意味は違えどいつも先生の目下にいて、いつだってスポットが当たる所にいる。「普通の子」はどうしたって一番「手のかからないいい子」なのだ。そして自分たち自身も「普通の子」でいなければならないと自身に圧をかけて、実は一番、いろんなものに耐えて張りつめて生きているのだ。「糸でも何でも、たるんでるうちはキレないんですけどね」というセリフが確かあって、私はその言葉にはっとさせられたまま、今日まで生きてきた。「普通の子」は、たるむ事すら許されないのだ。いつだって人知れず心を張りつめて張りつめて、だからとうとう、キレてしまう。そんな大人になりきれない「いい子」のリアルが生々しくて、とてもいい。

ところで「カサブタ」という曲があって、繊細な彼らの感情はその曲によく描かれているなあと思いながら私は聴いている。私は今23歳で、過去に中学生だった経験のある人間で、そんな私の心は、

「せめてふがいない僕らの自由の実を切り取らないで」

という表現に、胸が締め付けられそうになる。

 

大人はなぜか子供の事を、中学生になった途端に都合よく大人扱いする。そして都合よく子供扱いする。子供なのだからと縛り付けながらももう大人なのだからとつま弾いたりする。そうして不安定に弄ばれて、自由を失い、やり場のない感情は、生まれる。その感情を、「普通の子」は必死にしまい込む。大人がそうさせるから。無意識のうちに大人から、「感情を隠す」術を学んでしまうのだろうなあ。中学生の周りにいる大人は汚いなあと、大人と言われる年齢になった今でも、私は思う。もちろん一概には言えないけれど、そういった中学生の不安定な部分を助長させるような不安定な扱いは、繊細な彼らの心を翻弄しているだけなのだと、私は、思う。

一番大人になりたくて、大人ぶりたくて、けれどまだまだ大人にはなれない事も分かっていて、そんな年頃の彼らがもがいたり悩んだりする中で、たるんだりキレてしまうことを、大人はもっと許してあげてほしい。湧き上がる感情を、自由に扱う事を許してほしい。なんで世の中学生代表みたいなこと言ってるんだろう私は。もう立派なババアなのに恥ずかしいや。

 

先日久しぶりに、本当に久しぶりにエイジを読んだら、なんだか胸の真ん中の奥の方が熱くなったので、こんなことを書いてみました。

エイジくんは描かれている描写以上にかっこよくて素敵な男子だと思うのだ私は。きっと菊池風磨くんみたいな子なんだろうなあと想像しながら読んでいる。きもい

常識の話

人を殺してはいけないとか、物を盗ってはいけないとか、そんな常識以前の常識が私達の生活には思ったより沢山あって、けれどそれらと同じような顔でしれっと存在する常識の中に、私なりの物議を醸しているものがあって、そのお話。

 

例えば、「電車内で化粧をしてはいけない」という常識について。いやもちろんしてはいけないのは分かる。それは分かった上での話なのだけれど、じゃあなんでダメなのかと考えると、それが私には分からない。もちろん粉や匂いを撒き散らしたり、隣の人の服を汚してしまうのはアウトなのだが、そうも簡単に大量に粉が出たり匂いが強烈だったりするものではないのだ。化粧っていうのは。そうなる可能性がある、のだけれど、可能性の事を考えてしまったら、どんなこともそう言えてしまって一概に化粧だけ悪とは言えない。みっともない、というのは自己責任なので、だから車内で化粧をするなと人に言われる筋合いは無い。じゃあ見るな、って感じだよな。言っている事が理屈っぽいのは承知している。けれど、そういうことなのだ。例えば電車で化粧をしているギャルに注意して「誰にも迷惑掛けてないからいいだろ」と反論されたら、「そうだよな」となる自信がある。あっさり負けると思う。

そういった、「電車内で化粧をしてはいけない」とか「人の好きな人を盗っては(この場合のとる、は盗るなのか取るなのか…)いけない」とか、私にはそういった「さじ加減常識」が分からない。ダメな事は分かるのに、答えは分かっているのに、途中式が分からない。「なぜ」の部分が曖昧な常識は、なんだかむずがゆい。

 

常識とはまた違うけれど、「スポーツマンシップ」というものがあって、私はそれをとても美しいなと思っている。「正々堂々」とか「正義感」とかそんな曖昧なものがしっかりと輪郭を持ちそれがスポーツを行う上での支柱となっているから、なんだかいいなって思っている。そして、そんな精神的なものを皆がきちんと守るから、スポーツ界は大概平和だ。

日本人はその「スポーツマンシップ」に近い精神できっと生きていて、「なんとなく察する力」とか「理屈じゃないことを飲みこむ聞き分けの良さ」とか、そんなものを割と持っている人種なのだと思う。例えば席取りの為に荷物を置いておいてもその荷物を盗まれないのは日本のとてもよい所で、私達は「いやいや人の物はダメっしょ」と当たり前に思うけれど、あまり治安の良くない所の人の「いやいや置いてあんだよ?ここ公共の場よ?盗られて文句言えないっしょ」という言い分も全然正論なのである。けれどそれに対して、「いやまあそうなんだけどさ、そういう事じゃないんだよ。なんかほら、悪いじゃん」というふわっとした理屈がまかり通るのが、それが正論として扱われるのが日本で、日本のいいところなのだ。生まれてから自然にその精神を身に付け生きてきたもので(というよりこの精神が無いと日本では生きていけないと思うのだ)、理由や理屈を考えないまま常識として察したり飲みこんでいるものがあまりに多すぎるのだ、と思った。

私はこの「察する」という文化は割と好きだなあと思っていて、世の中には理屈じゃないものってたくさんあって、その全てに理由や理屈を求めていたならきっと息苦しくて窮屈で、そして思いやりが前提にあるのが優しい感じがして、なんだかとても素敵だ。けれど「良し」があれば「悪し」があるのが物事の常で、日本文化に於いては、「なんでダメなの?」とタンクトップ大好き帰国子女とか理屈コネコネ天パ東大生(こういう人は大概唇が厚い)に聞かれたら、その「なんで」が言えないその一点に尽きるのだ。それが思いやりだからだよ、って、もうそれしか言えない。なんでお前の唇は厚いんだよって聞いてやろうか。遺伝だからだよ、とかしか言えないだろ。そういうことだよ。全然違うよ。けどまあ事実答えられないから、「これってなんで常識みたいになってるんだろう」ってふと考えてしまったりするんだよな。

理由のない常識は、言葉に出来ない日本特有の思いやりがもたらすただの優しさなんだろうなあと、なんとなく思う。この話の着地点ってどこだろう、まあいいか。

 

眼薬は墨汁の匂いがすると気付いたのは最近のこと。