「僕が一番欲しかったもの」に登場する「素敵なもの」とは何なのか

さっきとても素敵なものを 拾って僕は喜んでいた

 

きっとまたこの先探してみれば もっと素敵なものが見つかるだろう 

 

 

「素敵なもの」を拾ったり譲ったり探したりする名曲、「僕が一番欲しかったもの」であるが、「素敵なもの」、「僕が一番欲しかったもの」を、最初から最後まで【曖昧】に描いている事が見て取れる。

拾った「素敵なもの」を人に譲ることでその人のくれた「笑顔」が、すなわち「僕が一番欲しかったもの」であるという。歌詞を見ても、「まあだろうな」と思う。まあそれはよいとして、根本、槇原敬之は「素敵なもの」は何だったのかを教えてはくれない。それこそ、「素敵なもの」なんて人それぞれで何を得たら嬉しいのか、何をそこまで欲しているのかなんて人の事まで分からない。私はその「曖昧さ」がとても好きだ。

 

ただ、「素敵なもの」においては曖昧さの中にヒントがあって、曖昧の中で輪郭が見えかけている。

まず、冒頭にも書いた「さっきとても素敵なものを拾って僕は喜んでいた」という歌詞である。ここから「素敵なもの」は「拾う事が出来るもの」すなわち物体であるということが読み取れ、更に「道端に落ちている事が珍しくなく、かつ拾ったら割と嬉しいもの」であると分かる。そして1番にも2番にも出てくる、他人にその拾得物を譲る描写。そこから、「拾って届けなくても罪にならないもの」であり「少なからずそれを欲している人がいて、善意で簡単に譲ることができるそこまで高価では無いものである」と推測できる。

そこから導き出される一番簡単な回答は「硬貨」である。純粋に素敵なものだし、割とコンスタントに道端に落ちているものである。1000円札だとあまり人に譲りたくないし5000円札はさすがに理性が働いて届けてしまうかもしれないが、硬貨ならどれだけ高価でも(無意識に韻を踏んでしまった)500円であり、良心もあまり咎めないし必要な人がいるならば簡単に譲る気持ちも持てる。ここまでの考察で「硬貨」という答えに行きつくのは何の不自然さもない。

ここで発生する疑問は「1番と2番に出てくる素敵な物は同一のものなのか、違うものなのか」という点と、「そもそも1日に2つも上記の条件に当てはまるものを拾う事が出来る治安ガバガバな土地はあるのかあるとしたらどこなのか」という点である。

1点目は、1番のサビに「この先探していけばもっと素敵なものが見つかるだろう」とありその直後2番Aメロで素敵なものを実際見つけて拾っている。「もっと素敵なもの」が見つかったのだろう、と思う。一概には言えないし、もしかしたら1番で拾ったのは10円で2番は100円かもしれないが、そこには個人的にドラマ性を持たせたいので別なものであるとする。してもいいかな。

そして2点目であるが、ちなみに私は3年前、ベロベロに酔っぱらっていた時に道端で割と良さげなサングラスを拾ってかけて帰ってしまった事がある。そのまた同じ年に同じ場所で、道で居酒屋のトイレのサンダルを見つけたので靴もはかずに吐いている男性の横に置いてあげた経験もある。そのように様々な「なんか使えそうなもの」がバカスカ落ちている無法地帯を、私は知っている。言わずもがな、「高田馬場駅前ロータリー」である。あそこはすごい。いるものもいらないものも何でもある。鞄が持ち主ごと落ちているときだってある。そしておまけに馬場のロータリーにいる人間は基本的に心が優しい。落ちてるものは拾うがそれを譲る心もきっとある。死にそうな赤の他人の為に救急車を呼んであげるくらいなのだ。そこは、汚いくせに優しい世界なのだ。

 

とどのつまり名曲「僕が一番欲しかったもの」は、「高田馬場駅前ロータリーで硬貨であったり良さげなサングラスを拾っては人に譲ってあげる心優しい酔っ払いの話」である。10円100円のはした金をそこまで欲する人がいたのか、その程度のものを譲った時の笑顔が果たして「僕が一番欲しかったもの」なのか、細かく突き詰めていくにはまだまだ時間が必要なのでそれは今後時間をかけてきちんと行いたい。私はこの点に関しては徹底的に暴きたい。この熱意を仕事にぶつけたい。

 

ところで私は道尾秀介という作家がとても好きなのだが、その作家さんの「向日葵の咲かない夏」という作品がある。皆まで言わないが、この作品は私の中で「曖昧」を最もスマートに描いている作品で、加えて道尾秀介は「曖昧界のプロ」なのである。結末がきちんとあるのに、すっきりまとまっているのに、どこかに「もや」が残る、そんな描き方のプロなのだ、道尾大先生は。

 

つまり私は槇原敬之と共に、道尾秀介をこの世にオススメしたくてこんな長ったるくてくだらない文を書いたのである。そういうこともある。