わたしのこと、のこと

小学校2年生の時に、「お店やさんごっこ」を授業でやったことがある。営みたいお店を提案して、クラスで何店かお店を開き、他クラスが買いに来るというものだった。私のクラスではパン屋さんと花屋さんが人気で、クラスの中心的な子達はみんなどちらかのお店の店員さんになることを希望した。もちろん私の仲の良かった友達も皆どちらかの店員さんになっていた。そんな中私は「しおり屋さん」というニッチな事業に手を出し、ひと儲けを企てたのである。そこに勝算はあった。「実用的」だったからである。パンや花といっても新聞紙を丸めたり折り紙を切ったりしたものであり、言い方は悪いがそれらはいずれゴミになる。それは明白であり、そしてゴミにされるのが悔しかった。私は、少なくともパンや花よりもゴミにならずその上先生の検閲を通り抜ける真っ当な商売である自信があった。パン屋さんの子よりも良いものを作りたいだとかそんなライバル心ではなく、ただただ、自分が正しいと思った事に対しての結果が欲しかったし、成功する自信があった。そんなガメツく可愛げのない8歳児だったのである。

 

そんな8歳児だった私はそのまま23歳になった。他人に対する対抗心は微塵もないが自身に対するプライドだけは高く、自分で決断したことには確固たる自信がある。そんな泥臭い女に育ったのである。

友達も皆行くのに、家から徒歩20分なのに、「心理学を学びたい」という思い1つで都会のキャンパスに通う道を捨て、家から1時間半かかるド田舎キャンパスに通う事を選んでしまう。

人の上に立つ器でもないのになぜか気付いたら係長や委員長になってしまっている。

けれど、その選択にはなぜかいつも自信がある。クソ田舎キャンパスに通って良かったといずれ思う日が来る、器ではないなりに絶対にそのイベントや行事が成功する。そんな自信がなぜかいつもあった。

その自信の正体は、正体と言うにはあまりに曖昧なものであった。

 

たまに、不思議な感覚になる時がある。学生時代、何かに選出される選挙の時「これは選ばれる気がする」と感じたり就活の時に「この選考は通過するな」と確信を持ったり、なぜかどこからか湧き上がる確信みたいなものが、コンスタントにあった。そのふわっとした不思議な感覚が、私はきっと幼少期から備わっていたのだろう。

その感覚は、その確信は、たいがい当たっているから本当に不思議なもので、そしてこれは多くの人が体験したことのある「よくある不思議」なのではと思う。

 

その不思議な感覚を人格形成の支柱にしてしまったのである。この不思議な感覚を感じる以外の時は、いつも自信が無くて不安でブレブレなのに、コンスタントに「ゾーン」に入ることがある。

私は私の人格形成の中核であるにも関わらず、この感覚の正体を知らない。

「なんかいける気がする」の正体を、ここ2年くらいずっと探している。

 

そんな事を言いたいがための、見切り発車な文でした。