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常識の話

人を殺してはいけないとか、物を盗ってはいけないとか、そんな常識以前の常識が私達の生活には思ったより沢山あって、けれどそれらと同じような顔でしれっと存在する常識の中に、私なりの物議を醸しているものがあって、そのお話。

 

例えば、「電車内で化粧をしてはいけない」という常識について。いやもちろんしてはいけないのは分かる。それは分かった上での話なのだけれど、じゃあなんでダメなのかと考えると、それが私には分からない。もちろん粉や匂いを撒き散らしたり、隣の人の服を汚してしまうのはアウトなのだが、そうも簡単に大量に粉が出たり匂いが強烈だったりするものではないのだ。化粧っていうのは。そうなる可能性がある、のだけれど、可能性の事を考えてしまったら、どんなこともそう言えてしまって一概に化粧だけ悪とは言えない。みっともない、というのは自己責任なので、だから車内で化粧をするなと人に言われる筋合いは無い。じゃあ見るな、って感じだよな。言っている事が理屈っぽいのは承知している。けれど、そういうことなのだ。例えば電車で化粧をしているギャルに注意して「誰にも迷惑掛けてないからいいだろ」と反論されたら、「そうだよな」となる自信がある。あっさり負けると思う。

そういった、「電車内で化粧をしてはいけない」とか「人の好きな人を盗っては(この場合のとる、は盗るなのか取るなのか…)いけない」とか、私にはそういった「さじ加減常識」が分からない。ダメな事は分かるのに、答えは分かっているのに、途中式が分からない。「なぜ」の部分が曖昧な常識は、なんだかむずがゆい。

 

常識とはまた違うけれど、「スポーツマンシップ」というものがあって、私はそれをとても美しいなと思っている。「正々堂々」とか「正義感」とかそんな曖昧なものがしっかりと輪郭を持ちそれがスポーツを行う上での支柱となっているから、なんだかいいなって思っている。そして、そんな精神的なものを皆がきちんと守るから、スポーツ界は大概平和だ。

日本人はその「スポーツマンシップ」に近い精神できっと生きていて、「なんとなく察する力」とか「理屈じゃないことを飲みこむ聞き分けの良さ」とか、そんなものを割と持っている人種なのだと思う。例えば席取りの為に荷物を置いておいてもその荷物を盗まれないのは日本のとてもよい所で、私達は「いやいや人の物はダメっしょ」と当たり前に思うけれど、あまり治安の良くない所の人の「いやいや置いてあんだよ?ここ公共の場よ?盗られて文句言えないっしょ」という言い分も全然正論なのである。けれどそれに対して、「いやまあそうなんだけどさ、そういう事じゃないんだよ。なんかほら、悪いじゃん」というふわっとした理屈がまかり通るのが、それが正論として扱われるのが日本で、日本のいいところなのだ。生まれてから自然にその精神を身に付け生きてきたもので(というよりこの精神が無いと日本では生きていけないと思うのだ)、理由や理屈を考えないまま常識として察したり飲みこんでいるものがあまりに多すぎるのだ、と思った。

私はこの「察する」という文化は割と好きだなあと思っていて、世の中には理屈じゃないものってたくさんあって、その全てに理由や理屈を求めていたならきっと息苦しくて窮屈で、そして思いやりが前提にあるのが優しい感じがして、なんだかとても素敵だ。けれど「良し」があれば「悪し」があるのが物事の常で、日本文化に於いては、「なんでダメなの?」とタンクトップ大好き帰国子女とか理屈コネコネ天パ東大生(こういう人は大概唇が厚い)に聞かれたら、その「なんで」が言えないその一点に尽きるのだ。それが思いやりだからだよ、って、もうそれしか言えない。なんでお前の唇は厚いんだよって聞いてやろうか。遺伝だからだよ、とかしか言えないだろ。そういうことだよ。全然違うよ。けどまあ事実答えられないから、「これってなんで常識みたいになってるんだろう」ってふと考えてしまったりするんだよな。

理由のない常識は、言葉に出来ない日本特有の思いやりがもたらすただの優しさなんだろうなあと、なんとなく思う。この話の着地点ってどこだろう、まあいいか。

 

眼薬は墨汁の匂いがすると気付いたのは最近のこと。