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「ゆるい幸せ」の想像

アジカンが歌う「ソラニン」という曲が私は結構好きで、この曲はすごいなあとシンプルに思ったりする。

なにがすごいかというと、「例えばゆるい幸せが だらっと続いたとする」という歌詞なのだ。なんの説明もないのに、「ゆるい幸せ」と言う表現で、それがどういった幸せなのか、ありありと想像する事が出来るのだ。そして「だらっと続く」というその一言で、その幸せが日常的なものであることが読み取れて、本当に何気ない幸せなのだと分かる。想像の中身は人それぞれなので分からないけれど、きっと全員が、日曜の昼にテレビを見ながら昼寝をする時間とか、少し奮発したお高いケーキの味とか、犬の肉球の匂いとか、ちょっと気になる人と続いているLINEとか、夜中のポテチとファンタとか、そんな穏やかな空気を纏った朗らかな幸せを想像している。そして、「ゆるい幸せ」がものすごく幸せなことだということも分かっている。一生のうちの幸せの大半がこんなささやかで淡く溶けてしまいそうな幸せで、そんな幸せを幸せだと感じられる人生は、分かりやすく幸せなのである。それら全てを「ゆるい幸せ」で表してしまうから、ソラニンはすごい。

 

ワンルームのアパートで、床にマットレスだけ敷いた少し頭の高い布団で、本棚にはスラムダンクとボーイズオンザランがあって、フローリングには茶色のカーペットがひいてあって、部屋の中で煙草を吸うと怒られるからベランダに灰皿があって、角部屋にしたから日当たりが悪くて(みたいな部屋に住んでる彼氏がいて)、友達も多くはないけれどちゃんといて、小さな悩みはあるけれど毎日なんとなく楽しくて、メロンソーダが蛇口から出る会社に勤めたいなあとか考えて、一緒にお昼に行ってくれる同期はいないけど会社の近くのスンドゥブがおいしくて、春は花粉が辛くて夏はシンプルに暑くて冬は太るから秋が一番好きだなあとかそんなことを9月になったら毎年考えて、ハーゲンダッツのサンドされてるやつをちょっと奮発した大きいテレビでゲームしながら食べて、おもくそソラニンにインスパイアされてるし最後の方は私の趣味と生活が露呈した気がするけれど、けどまあこれが「ゆるい幸せ」から私が想像した「幸せ」なのだ。こう思うと世の中には幸せが溢れているものだ。(ところで私は中高時代ニュークラウンという英語の教科書を使っていたのだけれど、どうもインスパイアという教科書ないし参考書を使っていた記憶がある。使ってたよな?何だっけアレ、問題集?)

 

幸せの指標は人それぞれなのに、人の幸せを淘汰する風潮がある。スケールが大きくなるけれど、例えば同性愛だってそうだ。好きな人がいるというゆるい幸せを、相手が同性というだけで淘汰されるのは、あまりに虚しすぎる。その人なりのゆるい幸せは、その人の自己満足なのである。大切にしていた関ジャニのポスターを理不尽に破られた13歳の頃、私はその虚しさを覚えた。

富を得るような大それた幸せじゃなくてよくて、ただ毎日の中で感じるそれをなるべく沢山イマジンできたらいいし、淘汰されない世の中になったらいい。唐突にばかでかいスケールの話するのは見切り発車で書いている事がバレるのでやめたい。

 

最近近所のコンビニに新人さんが入った。これまた可愛い男の子で、この春から大学に入ったのかな、そんな幼さと線の細さがあって、私はその子が働いているのを見ているとたまらなく優しい気持ちになる。それが私が最近感じたゆるい幸せである。私はこれからあの子の健やかな成長を幸せと感じ生きていくのである。気持ち悪い。