「そば」とは

「歩行者の側を走行する際には一定距離離れていれば徐行の必要は無い」

 

車の免許を取る際に、学科試験で何度も見た文である。私は頭が悪い上にとても疑り深いので、

「一定距離離れている場合はもはや【側】とは言わないのでは?という事はこの問題の答えは☓なのでは?」とか思ってしまう。そして今も思っている。ヘリクツなのは分かっている。けれど、教習の問題で「側」などという曖昧な表現を使用するとこういうヤバイ思考を持った奴が出てくるという事を、制作側は分かっていないのだ。憤怒だよ。

 

ところで人には「パーソナルスペース」なるものがある。そこに他人が踏み込むと不快だと感じる、各々の防衛スペースである。(ちなみに私は大学で心理学を専攻していたのだが、ドクダミを持った人と何も持っていない人でパーソナルスペースに開きはあるかというなんとも思考ガバガバな実験をやったことがある。)その広さは人によって異なり、また、踏み込んでくる人によっても異なる。中学の時の担任の中尾先生とは半径500メートルで生きていきたいが、柳楽優弥とはゼロ距離で触れ合いたい。常に柳楽優弥を肌で感じて生きていきたい。私のパーソナルスペースが例えば半径2メートルでも、近づいてくる人のパーソナルスペースが直径2メートルなのであれば、私は望んでないのにガンガン近づいてきてしまう。まじむり

これは生身の人間対人間の話だけでなく、車と無機物を介しても、きっと言う事が出来る。車が人の側を走ってはいけないことは分かり切った上で、私は菅田将暉の運転する車に轢かれたい。あわよくば示談と引き換えに籍を頂きたい。示談金などいらないから扶養にしてほしい。そんなもんなのだ。私は割とパーソナルスペースが広い方だと思うのだが、それでもゼロ距離で接していきたい人はいる。公道では一定距離離れなくてはならないにしても、それは理屈でしかない。法に裁く事の出来ない、理屈で片付ける事の出来ない気持ちだって、確かにある。どうしたってそばにいたい、そんな気持ちは確かに私達の中に、ある。

 

「そば」というあまりに曖昧な距離の単位は、その人を想う強さの単位とニアリーイコールなのではと、私は思うのだ。その人との満足できる距離が、「そば」なのだ。その人に感じる「そば」とその人が私に感じる「そば」が、同じ距離で、できたら短くあればいい。それは分かりやすく幸せの指標なのだ。

 

ちなみに乗車中は人と一定距離を保たなければならないのかという点は、気持ちの問題というかまずモラルの問題。私はいい加減免許欲しい。学科試験に150回くらい落ちてる。学科試験と距離を保ちたい。