なぜ学生はたかが部活に本気になれるのか

大学3年くらいからずっとこの事について考えていて(よくもこんな下らないことずっと考えるなあ)、最近自分なりに答えが出た気がしたので、そんな感じの話。

例えば私は箱根駅伝が好きなのだが、箱根選手の殆どが、箱根を走る為に練習を積んでいる。テレビではスター選手ばかりを特集するから箱根選手はみんな未来の事を見据えているような気がするけれど、そんな選手は一握りで、殆どの人が箱根(まあ出雲駅伝でもなんでもいいんだけども)駅伝を走るという夢を持って駅伝の為に命を懸けて練習している。実業団に入る人もオリンピックに出る人も一握りなのだ。(以上、私の偏見です。事実とは異なると思います。そこら辺はふわっと察して)
その大多数の方の選手は、言い方悪いけれども、たかが部活の為になぜ命を懸けて本気で取り組むことが出来るのか、そんな話。

駅伝選手だけでなく、世の中の殆どの学生が該当すると思うけども、部活を一生懸命頑張る美しい学生たち。そんな彼らについて考えた、そんな話。

私の好きな本の中にこんなセリフがある。
「陸上やってて9割がたが辛いんだ。嬉しい時なんてほとんどない。けどその少しの嬉しいが、全部の苦しいや悔しいに勝つんだよ。」
私はこの言葉がとても好きで、これが答えなのかなと私は思う。
過去に体験した1割の嬉しいや楽しいという感情を体と心が覚えていて、それがあまりに大きくて美しいものだと私たちは知っていて、それが9割の辛い事の後に待っていることも知っていて、だから、いつどんな形で訪れるか分からない「まだ見ぬ1割」の為に、1割が訪れる事を信じて、9割の辛い道を自ら選択するのである。しかも無意識に。
努力したって箱根駅伝には出られないかも知れない。例え出られた所で、箱根駅伝は1年のたった2日間だけで、その2日の為に残りの363日ずっと9割の人生を送らなければならない。それでも、箱根駅伝に出られたという1割の喜びがとてつもなく大きくて尊いと知っていて、今までの9割をすっかり忘れてしまうくらい報われると信じているから、その1割の喜びの為に9割に挑んでしまうのである。9割に命を懸けてしまうのである。1割ぽっちの喜びは、麻薬なのだ。

 

ところで先日、学生時代に入っていたサークルの追いコンがあって、後輩達の最後の雄姿を見届けてきた。4年間のサークル生活の中の何を9割と感じ何を1割と思うかは人それぞれだけど、私にとっての1割イベントの1つが、この追いコンだった。舞台に立って照らされて一段上から後輩や同期の顔を見た時に、今まで辛かったことが全部報われた気がして、「ああ私はこの景色の為に4年間サークルを続けたんだなあ」って感じたのを、後輩の雄姿を見て思い出て、上記のあのセリフを思い出した。4年間いつも辛かった気がするけど、なんかまあいっか~ってなったのを覚えている。そしてこの時「とっておきの1割」を体感してしまったから、これから先の人生のどこかでまた、無意識に9割に挑んでしまう時が来るのだろう。なんたって1割の時に見た景色があまりに絶景だったのを、私の体は覚えているのだ。そう思うとサークルを4年間続けたのだって、高校の時にあった「とっておきの1割」の事を体が覚えていたからなんだろうなあ。今ももしかしたら無意識に9割に挑んでいる最中なのかもしれない。こうやって人は生きているんだろうなあ。私も生きてる。すごい

3年間もぐだぐだ考えていた事に後輩の姿を見ただけで簡単に答えが出てしまったので、人の命を懸けて輝いている姿には大きなパワーがあるという事なのだ。薄っぺらいことを書いてしまった。

 

結局一番言いたいことは上手く言えなくて、語彙力が足りない。私は「オシリは1つなのか2つなのか」とか考えてる方がきっと向いている。