人の進化の話

珍しく仕事が忙しかったので久しぶりですが、こんなどうでもいい話です。

 

神が初めて造った人間がアダムとイブだと言われており、すなわちは人間の根源なのである。彼らを描いた(全てあくまで想像なのだけれど)絵画はどれもみな、2人をサイゼリヤにある謎に幻想的な絵画のようなタッチで、姿かたちは現代を生きる人間と近しいものを感じる。

そこで疑問なのが、猿人の存在である。なぜ人は人の形に生まれて、一旦サルを挟んだのか。人に生まれたのならば人のまま成長すれば一番単純かつ順当だと思うのに、なぜ謎にサルを経てしまったのだろう。尾てい骨は人間がサルだった時のなごりだと教わるが、そもそも尻尾などない生物だったではないか。そんな話

 

まず、人というのは学ぶことのできる生物である。様々な方法を試した上で最善を選択する事が出来る。それはきっとアダムとイブ時代からそうで、そうやって学ぶことで生きてきたのだと思う。

私はいつもその「最善」を誤らずに選択する事ができない。必ずいつもはじめは「ハズレ」を引き当てて、これじゃなかったなあって思い模索しながら成長する「遅咲きタイプ」なのである。自分で遅咲きとか言っちゃうけども。一旦失敗しないと、正しいものや自分にとっての最善や、自分が今何を必要としているのかという自分の心さえ分からないのだ。けれどこれは私だけの話ではなくて、様々な選択肢を事前にシミュレートできるか試してみてから気付くかの違いなだけで誰しもがそうで、皆きっと失敗の選択肢を一度は選択している。私は後者なので、一度失敗をしないとそれが最善ではないという事に気付けない。

そして失敗は挑戦の証とはよく言ったもので、確かに現状に慣れ合ったり分かり切った事をこなす日々に失敗はないのだ。成長や進化の意志の先に、失敗はあるのだ。

人は二足歩行に生まれた。徐々に狩りを覚え疎通を覚え進化を続けるにあたって、四足歩行の方が効率がいいのでは?全身に毛が生えたら安全なのでは?そういった可能性を生活に見出した、のかも。そしてそれが最善の選択ではなかったと気付いて、徐々に元の人間の姿に戻った、のかも。と、私は思った。人間としての生き方もサルとしての生き方も試した上で最善は人間としての生き方だと学ぶ事が出来たのではないかと、だから私達は今人として生きているのではないかと、そう思うのだ。一旦謎にサルを挟んだのは、色んな意味での、進化の証なのだ。

 

そう思うと、アダムとイブとその仲間たちはとても頭が良くて、向上心があって、度胸があって、なんていうか、すごい人たちなんだなあと、バカみたいな感想だけど、思う。そして彼らを生んだ神という存在は、何者なのだろう。神はなぜ神として生まれたのだろう。いつから神という概念が生まれたのだろう。神は一代で築いた地位なのだろうか。哲学が過ぎるな。

 

 

以下、最近考えた事です

 

【気になる事】

・discussionとかpartyとかわざわざアルファベットで記載する人々(留学経験者や理系に多い)

・ディズニーに頻繁に付き合わされている彼氏はものすごく心が広いのでは?

・北海道の行方不明少年が発見された際に救助隊が渡した鮭と鮭わかめのおむすびは、やっぱり北海道だから鮭推しなのか?一個は鮭以外にしてあげたらよかったのにそこはやっぱり北海道だからなのか。

・インパという略し方

・誰から習ったわけではないのに、なぜか片足を前に出すと自動的に歩けるようになっている人体の不思議

・熱量0の食べ物は燃えないのか?

 

【ちょっとした怒り】

・「Mっぽいよね」と言われ「そうでもないよ」と答えた後に必ずある「じゃあSなの?」という短絡的な質問

・アイフォンの基本料金が高い

marc jacobs とmarc by marc jacobs の統合

キャッチはなぜ傲慢で自分本意なのかというただの疑問

初対面の時、名前を聞きたいならまず自分から名乗るのだと私は教わった。自分が好きになったのだから自分からアプローチをしないと付き合えないのが恋愛だと、そう思っている。自分がどうにかしたい事は自分から働きかけなければならないのだ。それが世の常識だと、少なくとも私は思うのだ。

そんな教育を受けてきた私なので、街にいるキャッチはなぜこうも非常識なんだと思っている。用があって声を掛けてきたのはそっちなのに、なぜこっちが足を止めなければならないのか。話したい事があるならこちらの歩行に並行しながら話すのが筋なのでは?と思う。

そもそも中学1年の時、国語の先生(ゲロクソ怖いババア。だけど正しい事しか言わないからぐうの音も出ないみたいな人)に授業のあと質問しようとしたら同じことを言われて、確かになって思って国語研究室までの道のりを早歩きで「るれるれられ」とか言いながら質問したあの時から、私はこの疑問を抱いて生きている。あのおばさん怖かったけど、今思うと本当に為になる事しか教えない素晴らしい人だったなあ。くそみたいに怖かったけど。

 

本当に話を聞いてほしかったり興味を持ってほしかったら、もっと必死になるし相手の気持ちを汲んだり思いやったりするものなのだ。歩みを止められなかったくらいで諦めてしまう程いい加減な気持ちでキャッチをしているのだろうか。自分が聞いて欲しいのに相手の足を止めさせるほど自己中心的な気持ちで話しかけて、誰かの心に響くと思っているのか。仕事にプライドを持ってやいないのか。まあ仕事中にこんなん書いてる私に言われたくないだろうけども。そういうところなんだよ、キャッチっつーのは。そういった点に於いては改善の余地しかない。僕は今あなたにどうしてもこの話を聞いてほしいんだ、という気持ちが全く届いてこない。だから疎まれるのである。お願いしている側なのだから、もっと下手に出るべきなのである。そしたらもう少し誠意が伝わるのではと思う。これを何らかの偶然で読んでいるキャッチのお兄さんがいたら、ぜひとも参考にしてほしい。

 

声を掛けて、歩く私の横でずっと話したい事を話してくれたらよいのだ。私の時間も奪わないし下手に出ている感じがするし本気も伝わる。なぜこれを実行してはくれないのか?なぜ自分本意に傲慢に、私の足を止めようとするのか?

これが約10年もの間私が世間に抱いている不満である。あまりにくだらない。これを伝えたいがためのただの疑問と愚痴のこの記事を、許して欲しい。

 

「ゆるい幸せ」の想像

アジカンが歌う「ソラニン」という曲が私は結構好きで、この曲はすごいなあとシンプルに思ったりする。

なにがすごいかというと、「例えばゆるい幸せが だらっと続いたとする」という歌詞なのだ。なんの説明もないのに、「ゆるい幸せ」と言う表現で、それがどういった幸せなのか、ありありと想像する事が出来るのだ。そして「だらっと続く」というその一言で、その幸せが日常的なものであることが読み取れて、本当に何気ない幸せなのだと分かる。想像の中身は人それぞれなので分からないけれど、きっと全員が、日曜の昼にテレビを見ながら昼寝をする時間とか、少し奮発したお高いケーキの味とか、犬の肉球の匂いとか、ちょっと気になる人と続いているLINEとか、夜中のポテチとファンタとか、そんな穏やかな空気を纏った朗らかな幸せを想像している。そして、「ゆるい幸せ」がものすごく幸せなことだということも分かっている。一生のうちの幸せの大半がこんなささやかで淡く溶けてしまいそうな幸せで、そんな幸せを幸せだと感じられる人生は、分かりやすく幸せなのである。それら全てを「ゆるい幸せ」で表してしまうから、ソラニンはすごい。

 

ワンルームのアパートで、床にマットレスだけ敷いた少し頭の高い布団で、本棚にはスラムダンクとボーイズオンザランがあって、フローリングには茶色のカーペットがひいてあって、部屋の中で煙草を吸うと怒られるからベランダに灰皿があって、角部屋にしたから日当たりが悪くて(みたいな部屋に住んでる彼氏がいて)、友達も多くはないけれどちゃんといて、小さな悩みはあるけれど毎日なんとなく楽しくて、メロンソーダが蛇口から出る会社に勤めたいなあとか考えて、一緒にお昼に行ってくれる同期はいないけど会社の近くのスンドゥブがおいしくて、春は花粉が辛くて夏はシンプルに暑くて冬は太るから秋が一番好きだなあとかそんなことを9月になったら毎年考えて、ハーゲンダッツのサンドされてるやつをちょっと奮発した大きいテレビでゲームしながら食べて、おもくそソラニンにインスパイアされてるし最後の方は私の趣味と生活が露呈した気がするけれど、けどまあこれが「ゆるい幸せ」から私が想像した「幸せ」なのだ。こう思うと世の中には幸せが溢れているものだ。(ところで私は中高時代ニュークラウンという英語の教科書を使っていたのだけれど、どうもインスパイアという教科書ないし参考書を使っていた記憶がある。使ってたよな?何だっけアレ、問題集?)

 

幸せの指標は人それぞれなのに、人の幸せを淘汰する風潮がある。スケールが大きくなるけれど、例えば同性愛だってそうだ。好きな人がいるというゆるい幸せを、相手が同性というだけで淘汰されるのは、あまりに虚しすぎる。その人なりのゆるい幸せは、その人の自己満足なのである。大切にしていた関ジャニのポスターを理不尽に破られた13歳の頃、私はその虚しさを覚えた。

富を得るような大それた幸せじゃなくてよくて、ただ毎日の中で感じるそれをなるべく沢山イマジンできたらいいし、淘汰されない世の中になったらいい。唐突にばかでかいスケールの話するのは見切り発車で書いている事がバレるのでやめたい。

 

最近近所のコンビニに新人さんが入った。これまた可愛い男の子で、この春から大学に入ったのかな、そんな幼さと線の細さがあって、私はその子が働いているのを見ているとたまらなく優しい気持ちになる。それが私が最近感じたゆるい幸せである。私はこれからあの子の健やかな成長を幸せと感じ生きていくのである。気持ち悪い。

言葉に生命力がある少年たちの話

私の1日はすごく長い。

朝起きて出勤して退社して寝るだけの毎日は、驚くほど時間が有り余る。そんな1日を5日続けたら休日が2日あって、また同じ長い1日が5日間ある。そもそも24時間中8時間睡眠を取っている時点で割と時間の無駄である。人類全員平等に24時間なのが申し訳ないくらいに時間が余っている。

 

「1日が24時間じゃ足りないよ」というあまりにストレートな言葉が多くの人の胸に響いたのは、きっとそれが作られた思いではなく本心からの言葉だったからなのだろう。きっと本当に時間が足りなかったのだ。24時間では間に合わないくらいやりたいこと、夢中になれる事が沢山あって、そしてそんな人生はもれなくキラキラなのだ。それが少年「山田かまち」の人生だったのだ。純粋に、そんな人生に憧れる。

 

人生を夢中で生きた少年の拙い言葉は多くの人の胸を打つのだ。そんな話。

 

「空が青いから白を選んだのです」という本がある。奈良の少年院の少年たちが授業で書いた詩の詩集である。(少年院の少年とか、詩の詩集とか、「腹痛が痛い」みたいで気持ちが悪いな)その余りに拙くてあまりに純粋な詩はきっと本心から書いたもので、だから私はすごく揺さぶられた。

「ぼくのすきな色は青色です。

つぎにすきな色は赤色です。」

書く事がなかったら好きな色について書いてみて、という教官の言葉を得て素直に書かれたこの言葉から、私達は何を思うのだろう。何かを思えるだろうか。

「僕はA君の好きな色を2つも知る事が出来て嬉しかった」

そんな美しい思考は、彼らの本心なのだ。24時間を夢中に懸命に生きている彼らの、心からの言葉なのだ。

 

山田かまちも奈良の少年たちも、まだ子供で未熟で未完成で、自分に正直で、感情に貪欲だ。毎日に無駄がなくて、本当に1日が24時間じゃ足りないといった感じが、すごく朗らかで、それがすごく、いい。そんな毎日の彼らだから、ストレートな言葉で人に影響を与える事ができて、拙い言葉が伝わるのだ。なぜ伝わるかって、毎日懸命に生きているもので、生命力が言葉に宿っているのだ。拙い彼らの世界は、とても広い。

無駄な時間が無いというのは生き方に余裕があることの表れなのかもしれないと、なんとなく思う。何かに夢中になって過ごすことは、心に余裕がある証拠なのだ。だからそれつまり、私には余裕がないのだなあと思う。私の毎日も私の言葉も、枯れていると自分で分かる。もっと寝る間も惜しむくらい、人生を楽しんでみたい。懸命に生きてみたい。まず8時間睡眠をやめたい。夢中で生きることすなわちそれは、人生に水をあげる余裕があるということなのだ。そうしたらもっと、キラキラした言葉を生み出す事ができるのでは、と、思う。

 

1番好きな本を久しぶりに読んだらそんなことを思ったので、ちょっと書いてみました。

「空が青いから白を選んだのです」は、本当にオススメです。

 

まあけど眠いもんはしょうがねえんだよな。そりゃ寝るわ。申し訳ないけども。

「気になること」小ネタ集

議題にするほどでもない小さな疑問を抱いては書き溜め、をしていたらまじで溜まったので公開致します。ので、何か知っている人がいたらこっそり教えて下さい。

 

・オカマは心は女なのだから、よく聞く「オカマは男の気持ちも女の気持も分かるから恋愛相談したい~」というのは間違いなのでは?

・美食家は料理研究家とどう違うのか。「美食家」というネーミングにこだわりがあるのか

・みんながトイレでどうやってオシリを拭いているのか

・なぜ耳鼻科医は耳鼻科医になりたかったのか

・なぜハンバーグはあんなに美味しいのか

・右手でマウスを使うのだから、テンキ―は左手側にあるべきでは?

・たまにマジでシジミみたいな目の人がいるけれど、あの人たちの視界は良好なのか

カイジはあんなに賢くて行動力・集中力・統率力・問題解決能力に優れているのだから、どれだけクズでもさすがにあそこまで堕落はしなかったのでは?何が彼をあそこまでさせたのか?

・アダムとイブから、どこでどうなって、人類の色素の違いが生まれたのか(いつどのようにブロンドヘアーや黒髪、黒人や黄色人種など、様々な種類の人種が誕生したのか)

⇒そもそもアダムとイブは何人なのか

⇒一番最初の日本人は誰なのか

・世の中で最初にジェットコースターを考えた人はサイコパスなのでは?

・男性は用を足している所を公開し合っていて恥ずかしくないのか

・「けんけんぱ」は意味のある遊びなのか。あの遊びにおける真意は?

・なぜ留学をしたら偉いのか

・なぜ宗教の違いで戦争が起こるのか(そういう考えの人もいるよね、で済む問題なのでは?)

・なぜ水着は恥ずかしくないのに下着は恥ずかしいのか

・おいしい天津飯の作り方

・なぜ最近の漫画はイケメンの奴隷になったり下らない勝負をしているうちに恋が芽生えるのだろう。人の事を顎で使ったりすぐ争いにしたがる男はただサムイだけだと思うのに。

⇒あと、よく話を聞かずに些細な事で人の事を突き飛ばす女が多すぎる。少し触られたくらいで警戒して突き飛ばすなんて、自分の事をどれだけいい女だと過信しているのだろう。

・たいがいの漫画の1巻の初めの方に「成績優秀・運動神経抜群・眉目秀麗」と書いてあるのでは?

幸は分け与える事が出来るのか~アゲマンという生き方~

私は人より少しだけ、ほんの少しだけ、幸が薄い。少しだけだけどね、あくまで。小学5年から高校3年まで毎年運動会は雨だったし陸上の大会は私の試技の時だけ大雨だし引退試合の前に骨折るし誕生日に財布を落とすしその財布の中には朝もらったばかりの誕生日プレゼントのお金入ってるし1年に3回携帯無くすし携帯をマックのゴミ箱に捨てるし定期もマックのゴミ箱に捨てるし携帯をドバイ空港のトイレで水没させるしフランス旅行は5日中4日雨だし二股かけられるし(しかも私が浮気相手の方)彼氏できた直後に彼氏の異動が決まるしそれを筆頭に男運が死ぬほど悪いし第一志望の企業の最終面接の前日に気管支炎にかかって面接は一言も話せなかったし、とにかくいちいちツイてない。私は一生懸命生きているはずなのに、どうしても言動が悪い方へと作用してしまうのだ。

高校3年の時に「嫌われ松子の一生」を観た。私の話だ、と思った。この作品を観た人はなんとなく分かるだろう。そういう人生なのだ私は。とにかく報われないのだ。

 

けれど私の代わりに幸せになっている人がいる。昔からなぜかそうだった。私に不幸なことが起きると、必ず身近な人が幸せになった。気のせいだと言う人もいるし最初は私もそう思っていたけれど、1回や2回では無いのだ。会社の先輩に、「井上アゲマン説」を称えられた。お褒めにあずかり光栄だわって思ったけど少しだけバカにされてると思った。そんな私の話。

 

私は幼少期から、良くも悪くも目立つ子供だった。というか、悪い意味で目立つ子供だった。皆で悪さをしても、気付いたら「井上さんたちがやった」と、主犯にされた。長渕剛の「巡恋歌」という曲があるが、まさにその曲のような体験も、幾度とした。【こんなに好きにさせといて 「勝手に好きになった」はないでしょう】まさにこんな気分である。憤慨

そんなこんなで、死ぬほど雨が降るのも、財布を落とすのも、変な男に引っかかるのも、気管支炎も、全部「幸が薄い」で片付くのである。ぜーんぶ私が悪いのだ。そう、私は卑屈なのだ。光と陰で言ったら、圧倒的に陰なのだ。だから、光に憧れた。憧れはしたけれど、「陰日向に咲く」という言葉があって、私は結構その言葉が好きで、それが私なりの生き方で、「アゲマン」という生き方なのかなとも思う。幸を分け与えているのではない。私が陰であることで周囲が光になっているのでは、そう思うし、きっとそれが答えなのだ。私がこんなに幸が薄いから、周りのちょっとした幸せが際立つし、私がもたらしたように思えるのだろう。私は自分のそんな生き方が、結構嫌いじゃない。私は5年前から自分の事を「ロイター板」だと思って生きている。私を踏み台にして誰かが飛翔するなら、その輝く瞬間にいつも隣り合う事が出来るのだから、陰もロイター板も悪くないのだ。こんな人生を悪くないと思ってから、人に幸を与える事が出来るのかもしれないと、幸が薄いのも使いようなんだなと、そう思うようになったのだ。幸はあればあるほどいいに越したことはないけども。

 

きっと、本当は幸は人に与える事が出来ない。けれど私は、幸レベル:普通 の人よりも少しだけ多く、幸を人に分け与える事が出来る。私の側にいるだけで輝きが引き立つならば、それでよいのだ。私は幸は薄いけれど、不幸ではない。私の話しかしなかったけれど、思い当たる節がある方は察して感情移入して頂けたらよいのではと思います。

 

世のフレッシュマンたちよ、入社おめでとう

私から1つだけマジなアドバイスをさせて頂くと、己を奮い立たせようと元気の出るお気に入りの曲を聴いて通勤すると、しばらく経つとその曲がトラウマみたいになります。その曲を聴く度に入社直後の辛かった時期を細胞が思い出します。そうして私は西野カナの「GO!FOR!IT!」が聴けなくなりました。気をつけて。アーメン

「そば」とは

「歩行者の側を走行する際には一定距離離れていれば徐行の必要は無い」

 

車の免許を取る際に、学科試験で何度も見た文である。私は頭が悪い上にとても疑り深いので、

「一定距離離れている場合はもはや【側】とは言わないのでは?という事はこの問題の答えは☓なのでは?」とか思ってしまう。そして今も思っている。ヘリクツなのは分かっている。けれど、教習の問題で「側」などという曖昧な表現を使用するとこういうヤバイ思考を持った奴が出てくるという事を、制作側は分かっていないのだ。憤怒だよ。

 

ところで人には「パーソナルスペース」なるものがある。そこに他人が踏み込むと不快だと感じる、各々の防衛スペースである。(ちなみに私は大学で心理学を専攻していたのだが、ドクダミを持った人と何も持っていない人でパーソナルスペースに開きはあるかというなんとも思考ガバガバな実験をやったことがある。)その広さは人によって異なり、また、踏み込んでくる人によっても異なる。中学の時の担任の中尾先生とは半径500メートルで生きていきたいが、柳楽優弥とはゼロ距離で触れ合いたい。常に柳楽優弥を肌で感じて生きていきたい。私のパーソナルスペースが例えば半径2メートルでも、近づいてくる人のパーソナルスペースが直径2メートルなのであれば、私は望んでないのにガンガン近づいてきてしまう。まじむり

これは生身の人間対人間の話だけでなく、車と無機物を介しても、きっと言う事が出来る。車が人の側を走ってはいけないことは分かり切った上で、私は菅田将暉の運転する車に轢かれたい。あわよくば示談と引き換えに籍を頂きたい。示談金などいらないから扶養にしてほしい。そんなもんなのだ。私は割とパーソナルスペースが広い方だと思うのだが、それでもゼロ距離で接していきたい人はいる。公道では一定距離離れなくてはならないにしても、それは理屈でしかない。法に裁く事の出来ない、理屈で片付ける事の出来ない気持ちだって、確かにある。どうしたってそばにいたい、そんな気持ちは確かに私達の中に、ある。

 

「そば」というあまりに曖昧な距離の単位は、その人を想う強さの単位とニアリーイコールなのではと、私は思うのだ。その人との満足できる距離が、「そば」なのだ。その人に感じる「そば」とその人が私に感じる「そば」が、同じ距離で、できたら短くあればいい。それは分かりやすく幸せの指標なのだ。

 

ちなみに乗車中は人と一定距離を保たなければならないのかという点は、気持ちの問題というかまずモラルの問題。私はいい加減免許欲しい。学科試験に150回くらい落ちてる。学科試験と距離を保ちたい。